共産趣味者ブヤコフ=マクシモヴィッチの機関紙「クマウダ」創始号 ~クリスマス編~

 この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2019の19日目の記事です。

 

1219日(木)

<前文>

同志諸君、こんにちは。ブヤコフ=マクシモヴィッチによるクマウダをお届けする。この記事を全て精読するのがだるい人は、反革命だ!と言いたいところだが、字で示されている共産ワードだけでも追ってもらえれば記事の内容がなんとなく分かると思うし、最低限の自己共産化を達成できると思う。

まず、最初の日付がこの記事の投稿日前の1219日となっていることにツッコミが入りそうであるが、そのツッコミには後で答えるとして、「クマウダ」と言われても元ネタがピンと来ない人のための解説をしたい。

「クマウダ」という名前は言うまでもなく、ソ連時代にソ連共産党の機関紙として発刊されていたことで有名な「プラウダПравда」をもじったものだ(知らなかった人は己の共産的知見の浅さを自己批判せよ!)。ちなみにプラウダとは「真実」を意味するロシア語の一般名詞である。皮肉なことに、プラウダソ連国民に対する共産主義プロパガンダ紙であり、共産党にとって都合の悪い事実の隠蔽や、存在しない事実の捏造は日常茶飯事であった。もっとも、共産政権としては、報道とは「共産主義的“真実”の報道」であり、それは理想的な共産主義社会に向かって前進するために必要なものだから肯定されてしかるべきだ、という風に理論武装していたはずである。少なくとも、ソ連最初期の映画監督でドキュメンタリープロパガンダ映画を作成していたジガ・ヴェルトフ(Дзига Вертов, 1896~1954はそう考えていた。ヴェルトフを知っている読者は少ないと思うが、彼の「私は、私だけに見える世界を皆に見せるための機械だ」という言葉は攻殻機動隊に引用されている。

一般的に、メディアの本質とは、世の中で日々刻々無限に生み出される事実の中から、メディアが最終的には主観的に「事実」を選択し、自らのやり方でその「事実」をニュースとして出力する、という過程にあると言える。民主主義国家とされる国家のメディアにしても、政府や軍、あるいはスポンサーにとって都合の良いように「事実」が調整されることはよくある。一般に、西側諸国メディアは事実の報道を請け負う組織だが、事実自体が本質的に帯びている客観的な正しさをメディアが担保できないのだとすれば・・・・・・最初から共産主義的真実=プラウダ≠事実を報道する、という立場を採る方が、論理的には誠実だ、という気もする。まあ、ソ連プロパガンダ肯定論の前提となる共産主義的世界観は、現在ではほぼ全ての人に共有されないだろうが・・・。真実は事実の敵なのだ。

 

ところで、ソ連時代、民衆は共産政権の腐敗や生活の窮状を皮肉って、数々のブラックジョークを作り出し、権力の目・耳から隠れてそれらを密かに楽しんでいた。このようなブラックジョークを「アネクドートанекдоты」と呼ぶ。言わばソ連ツイッターであるアネクドートの中にはプラウダ等のメディアを皮肉ったネタも多い。いくつか挙げてみよう。

 

1.

Qプラウダとイズベスチヤの違いは何か?

Aプラウダにはイズベスチヤがなく、イズベスチヤにはプラウダがない。

<解説>

イズベスチヤ(Известияとはプラウダと並ぶ、ソ連時代の代表的な日刊紙である。共産党機関紙ではないが、ソ連政府の公式発表が掲載される新聞であり、プロパガンダ新聞という意味ではプラウダと大同小異であった。なお、「イズベスチヤ」は「報道」という意味のロシア語なので、上のアネクドートは、ソ連の新聞には報道も真実もない、と皮肉っているのである。

 

2.

Qソ連では新聞とテレビではどちらの方が有利か?

A:新聞である。物が包めるだけマシ。

 

3.

Q:象は新聞紙でくるめるか?

A:普通は不可能だが、プラウダが記事にそう書いたなら可能だ。

 

4.

Aプラウダアネクドートの投稿を募って、選手権をやるらしいぜ!

B:ほう、で一等賞は何だい?

Aシベリア送り

 

5.

プラウダに書いてあることで正しいのは日付だけ。

 

とこんな調子である。

以上、プラウダという新聞が、権力が大真面目に発刊している割に如何に民衆に遊ばれていたか、お分かりいただけたのではないかと思う。そんなプラウダをもじっての「クマウダ」なのだ。ふう、やっとクマウダまで話が戻った。私は存在自体がジョークであるプラウダを見習って、クマウダを今後書いていきたい次第である。

さて、すでに結構長い前文だが、前文の最後に述べておきたいことがある。慎重な読者はお気づきだと思うが、文章の最初に私自身が想定したツッコミに答えねばならない。つまり、この記事の日付が1219日になっているが、それは投稿日より前の日付だという問題だ。実は、この記事を記載している熊野アドベントカレンダーへの私ブヤコフ=マクシモヴィッチの文章投稿予定日が1219日である。つまり、簡単に言うと遅れているのだ。おそらく、私のпунктуальность(=punctuality)のなさを非難する向きもあるだろう。確かに、申し訳ない。しかし、ここは上で書いたような共産的論理でツッコミに答えたい。

 

共産的認識ではノルマは期日までに絶対に達成されるものであり、遅れることなどあり得ない。つまり、文章の投稿というノルマが達成された日が1219日である。

 

私の真実として、投稿日は絶対に1219日なのである。私の真実はなんぴとたりとも否定できない。第一、計画経済の予定通りいかなさを考えれば、私の遅れなど可愛い物。不満なら下に紹介する新アネクドートで憂さ晴らしでもするが良い。

 

  1. プラウダは日付だけは正しいが、クマウダは日付すら正しくない。

 

<本文>

ブヤコフ=マクシモヴィッチは激怒した。必ず、かの邪知暴虐のクリスマスを除かねばならぬと決意した。ブヤコフには政治しか分からぬ。ブヤコフは、共産主義村である熊野寮の住人である。NFではワニ肉のとなりでボルシチを売り、ブルジョアコンパではビーフストロガノフを作り、共産圏コンパでカチューシャを歌ったりして遊んで暮らして来た。けれども、日常に刷り込まれた資本主義的価値観に対しては、人一倍に敏感であった…  

 

クリスマスの季節である。この文章の投稿日は1219日(共産的真実として)なので、細かい人は「いや、クリスマスはまだ6日前だ」などと主張するかもしれないが、何事もそんな都合のよいタイミングでできるとは限らない。私は以下のクリスマスネタの文章の完成をぴったりクリスマスの日に合わせられるほど器用じゃなかっただけだ。

本文をここまで読んで鋭い読者は勿論、そうでない人も、「ああ、こいつはクリスマスをエンジョイできるようなリア充じゃないから、そのルサンチマンをこの文章で発散したいのだな」などと勘繰るだろう。

それは大きな間違いだ!

と言いたい所だが、実際その面は否定できない。と言いつつ、ありふれたクリスマス商業主義批判論とも少し違う。

単刀直入に言おう。

12月25日はソ連が崩壊した日である。さらに、ルーマニアの独裁者ニコラエ・チャウシェスク民主化革命軍に処刑された日である。

それぞれ、19911989年の話である。

つまり、今年のクリスマスは実はソ連崩壊の28周年、チャウシェスク処刑に関しては30周年の節目だったのだ。

12月25日と聞いてクリスマスしか思い浮かばぬ輩は共産的認識が欠如しているのだ!自己批判せよ!!!

私が一番強調したいのはこの事実だから、ぶっちゃけ後の歴史解説はななめ読みで良い。

 

今回はチャウシェスクの処刑に至るまでのチャウシェスク人生史、及びその間のルーマニア史を書く。チャウシェスクって知ってる?ルーマニアの独裁者ですこぶる評判の悪い人ね。名前くらいはどこかで聞いたことがある人も多いのではないかと思うけど、このチャウシェスクの歴史が結構面白いのだ。

f:id:bujakov_maximovich:20191229165537j:plain

f:id:bujakov_maximovich:20191229165748g:plain

2019年現在のルーマニアと周辺国

f:id:bujakov_maximovich:20191229170110j:plain

冷戦時代(1945~1991)のヨーロッパ地図。ワルシャワ条約機構ルーマニアも加盟している。

そもそも、ルーマニアって結構面白い国で、共産圏で唯一ラテン系民族が主体の国、という特徴を持つ。ヨーロッパの旧共産主義国のほとんどがスラブ系民族主体だということを考えると大分異色の存在だ。勿論、言語的にもラテン語派であり、仮にロシア語の知識があったとしてもルーマニア語は全く解読できない(ポーランド語、チェコ語ブルガリア語、セルビア語とかならロシア語と似ているので分かることも多い)。そんな、ラテン+共産主義という珍しい化学反応が起きた地の歴史が面白くないはずがない。

最初に断わっておくが、私の文章は論文ではないので、ソースの大半はウィキであり、厳密なツッコミをされたら答えられない。ご承知願いたい。こう書いたら、「じゃあウィキ読んだらええやん!」となるかもしれないが、ウィキのチャウシェスクのページにはチャウシェスク誕生前後のルーマニアの歴史的背景の記述が少ない割に、細かい役職の変遷などは無駄に詳しく書かれている感が否めない。そのあたりを私が適当に補足、省略しようと思う。

なお、ソ連崩壊についても書きたいが、歴史の面白さとしてチャウシェスクが勝る(主観)上、分量があまりにも膨大になるので今回はやめておく。

 

チャウシェスクルーマニアのお話し~

 

1. 誕生~幼年期

1918年、ニコラエ・チャウシェスクルーマニア南部の片田舎の農家の家で、10人兄弟の三男として生まれた。注目して欲しいのは1918年という年。

そう、第一次世界大戦が終わった年である。ルーマニアは連合国側に立って参戦したため、一応戦勝国であるが、同盟国のオーストリアハンガリーブルガリアオスマン=トルコに囲まれていたため、戦争で散々な目に遭った国だった。戦後の講和会議でトランシルバニアベッサラビアを得たルーマニアルーマニア近代史上最大版図を実現するが、人口の1割を失った(民間人込、戦病死や餓死を含む)。ルーマニア第一次世界大戦における人口比の死者割合は、セルビアオスマン=トルコに次いで参戦国で3番目に高い(参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%AE%E7%8A%A0%E7%89%B2%E8%80%85)。

 

f:id:bujakov_maximovich:20191229171934p:plain

第1次世界大戦犠牲者数。ルーマニアでは第2次世界大戦より第1次世界大戦の方が死者が多い。これは1914年時点(第一次世界大戦開始時)の地図であり、ルーマニアが現在よりも小さいことに注目!!


 
当時、ルーマニア国内が疲弊しきっていたことは間違いないのだ。そんな時代に生まれたチャウシェスク、幼年期苦労が多かったと思われる。彼は11歳の時に故郷を出て、工場で働くために首都ブカレストに移住する。

 2. 共産主義に染まる~第二次世界大戦

チャウシェスク1932年、14歳の時に当時非合法組織であったルーマニア共産党に入党。翌1933年に逮捕。年内に釈放されるも、翌1934年に再び逮捕。この逮捕歴には○核派もびっくりだろう。しかし、14歳の少年が非合法組織に入るほど当時のルーマニアが貧しかった、と考えるのが自然だ。共産主義に明るい未来を見るのも不思議ではない。

この後、1943年まで逮捕、釈放を繰り返す。ちなみに、第二次世界大戦においてルーマニアは枢軸についたので、当時のルーマニアナチスの強い影響下に置かれていたことは間違いない。よく生き延びたな、お前。

獄中で、将来の妻、共産党の有力者等、後々の彼の人生を決定づける出会いを果たす。

 

3. 第二次世界大戦

194558日、ヨーロッパで第二次世界大戦が終了し、枢軸についたルーマニア王国は崩壊、ルーマニアソ連に占領される。1947年、ルーマニア共産党が権力を握り、ゲオルゲ・ゲオルギ=デジ党書記長のもと農業省の次官に就任。その後、共産党内の親ソ連派との派閥争いを制し、1954年にはデジに次ぎ、ルーマニア共産党内でナンバー2の地位にまで上り詰める。

 

4. 書記長就任、独裁者へ

1965年、ルーマニア共産党書記長デジが天寿を全うし、死去。後釜にチャウシェスクが党書記長に就任。その後、党内での自らの立ち位置を固め、権力基盤を強化していく。

特筆すべきことは、書記長就任後、チャウシェスクソ連と距離を置き、親西欧路線を取ったことである。ルーマニアはバリバリソ連の衛星国であり、ワルシャワ条約機構WTOにも加盟していたにも関わらず、である。

まず、共産主義国だからと言って1960年代当時の全ての共産主義国が親ソだったという訳ではない。中ソ対立は既に表面化していた。ルーマニアと国境を接するユーゴスラビアも指導者チトーのもと、とっくに独自路線の社会主義を邁進していたし、1968年にはアルバニアWTOを脱退している。しかし、ルーマニアソ連との軍事同盟を維持していた。ここにルーマニアの独自性、一見矛盾した政策がある。1968年のプラハの春弾圧事件でもWTO加盟国の中で唯一ルーマニアだけ軍隊をチェコに派遣しなかった。また、1984年のロサンゼルスオリンピックでは1980年のモスクワオリンピックへの西側諸国の参加ボイコットの報復として親ソ国は参加ボイコットをしたが、WTO諸国の中でルーマニアだけはボイコットしなかった。これらの一連の「脱ソ」政策は、当初西側諸国だけでなく、ルーマニア国民からも支持された。しかし、チャウシェスクは同時に近代国家で類を見ない過激な政策を実行し始め、現在にまで至る社会問題を引き起こすのである。

 

5. 堕胎・離婚の禁止

1966年、チャウシェスクルーマニアの人口を増やすことを目的として、妊娠中絶を禁止。さらに、離婚に大きな制約を設け、事実上離婚を禁止した。これらの政策によって、ルーマニアの人口は増加したが、育児放棄によって孤児院に引き取られる子供が激増した。孤児院の環境は当時劣悪であり、病気になる子供が増えただけでなく、一部の子供達はストリートチルドレン化した。彼らはチャウシェスクの落とし子と呼ばれる。また、すさんだ少年時代を送った「落とし子」達は、ルーマニアの秘密警察セクリタリテの人員として積極的に活用された。ちなみに、広江礼威氏による漫画「Black Lagoon」の「Bloodsport Fairy tale」というエピソードには「チャウシェスクの落とし子」が登場する。面白いので読者の方々にお勧めしたい。

 

6. 対外債務問題

1960年代以降、西側諸国はルーマニアを親西反ソの拠点国と見なし、チャウシェスク政権へ融資をしていた。しかし、この融資が最終的には130億ドルもの巨額になり、1980年代ルーマニアはデフォルトの危機に陥った。この際、チャウシェスクは債務返済のためにあるゆる農産物、資源、工業品を大量に輸出し、国内では食糧の配給を実施した。つまり、借金返済のために国内消費に対する供給を犠牲にしたのである。いわゆる飢餓輸出だ。これにより1980年代を通してルーマニアの生活水準は年々悪化し、それに呼応してチャウシェスクの当初高かった国内での人気は年々下がっていった。

ちなみに、飢餓輸出の例としてはアイルランドジャガイモ飢饉が有名。

 

7.ルーマニア革命

1989年頃にはチャウシェスクルーマニアの悲惨な現状を受け入れることもままならなくなった。チャウシェスクへの報告は良い報告に限られ、チャウシェスクの訪問する店にだけはセクリタリテによって豊富な品物が用意される、という始末だった。末期のナチスドイツ的状況と言える。

このような状況下、19896月にポーランドで民主的な政権が成立するなど、一連の東欧革命が発生する。ルーマニアの民衆もこれに呼応し、デモ活動が活発化する。同年1216日、ルーマニア西部で発生したデモに対してセクリタリテが発砲、死者が発生。続いて、1221日には首都ブカレストで官製集会の最中爆発事件が発生し、いよいよチャウシェスクは危機感を抱く。同日、チャウシェスク国防軍参謀長であるワシーリ・ミーリャに対して、軍による民衆への発砲を指示するも、「国防軍は人民を守るための軍隊であり、人民に発砲はできない」と反論され、頓挫(ミーリャかっこいい!)。ところが、翌22日、かっこいい発言をしたミーリャは死体で発見される。死体は頭部が銃弾で貫かれていた。ミーリャの死に関しては、自殺説、チャウシェスクが暗殺を命令した説、セクリタリテが独断で殺した説などがあり、現在でもよく分かっていない。

真相はともかく、軍の将兵たちの間ではチャウシェスクによる暗殺説が広がった。22日中には国防軍チャウシェスクから離反し、民衆側に立って民主化革命を起こすことを決定、セクリタリテと戦争状態に陥る。混乱はここに極まり、チャウシェスクは首都からの脱出を余儀なくされる。

 

8. 逃亡失敗

ヘリコプターで自らが居住する宮殿、国民の館からの逃亡を図ったチャウシェスク夫妻であったが、ヘリコプターの操縦手もチャウシェスクが嫌いであったため、操縦手はわざと機体を上下に揺らして「対空砲火を受けた」と嘘をついた。チャウシェスク夫妻は空路での脱出を諦め、道端で運転している人を捕まえて脅し、首都からの脱出を強要した。しかし、その人も面倒ごとに巻き込まれることを嫌い、エンジントラブルを装ってチャウシェスクらを車から降ろした。結局、チャウシェスクらは脅迫ヒッチハイクを繰り返して田舎町まで逃亡したが、彼らに協力的な民衆は誰一人おらず、最終的に市民の軍への通報によって、軍に拘束される。ここまで、全て1222日の話である。

f:id:bujakov_maximovich:20191229172208j:plain

国民の館


 

 

9. 処刑

1225日、チャウシェスク夫妻は拘束されていた軍の施設で特別軍事裁判にかけられ、夫妻両方が死刑判決を受ける。そして、即日チャウシェスク夫妻は銃殺刑に処せられた。処刑されたチャウシェスク夫妻の死体を映した映像はメディアに公開され、翌26日に発表された。これを機にセクリタリテらチャウシェスク派の抵抗も収束する。1989年以後、ルーマニアチャウシェスク負の遺産を抱えながら、民主化への道を歩むこととなる。

 

以上で、チャウシェスクルーマニアの話を終えたい。散々な最期を遂げたチャウシェスクも、当初は国内外から広く支持されていた、というのが何と言うか・・・人生どう暗転するか分からないものだ。

ちなみに、クリスマス前後に起きた共産主義に関係のある出来事で言うと、ソ連成立(19221230日)スターリン誕生(18781218日)などもある。覚えておこう。そして、毎年これらの日になったらクリスマス・年末に押しつぶされず、歴史的事件の発生に思いを馳せよう。

では、タワーリシチ、ダスヴィダーニャ

 

他のアドベントカレンダーの記事も面白いから読んでな。